大切な大切な、かわいい大好きなパウ、2011年6月26日、日曜日、他界しました。
毎年うけている生化学検査の結果は今年も良好、元気も食欲もあるし機嫌もいい、だけどなんだか胸がざわざわして、もやもやっとしたものを感じた4月。2回目の診察までは「どこも問題ないよー」と言われ、それでももやもやした不安な気持ちがぬぐえず受けた3回目の診察で心嚢水の貯留が発覚。
5月6日に大学病院を受診し、「心臓血管肉腫」「ざっくりと余命は3ヶ月程度」「最終的には多臓器不全または心タンポナーデによる突然死」という診断を受け、心嚢水穿刺しました。パウは実は我が家の3匹でいちばん健康優良児でした。アニコムも12歳になるまで殆ど使わなかった子です。それがいきなりの、そして余りにも短い余命宣告、本当に驚きましたし、苦しかった。
しかしその2週間後には心臓血管肉腫と思われていたものは消え、最期の日まで、ふたたび腫瘍らしきものが現れることも、心嚢水が貯まることもなく、心音、エコーでの心臓の動き、心電図、心拍数など、すべての心機能は問題なく機能していました。
「なんだったんだろうね、でもこのままなにもないといいね、人騒がせなパウだねってずっと笑って過ごせるといいね」
なんて話していた6月3日。パウ自身はいつもどおりいたって元気でしたが、突然おなかに紫斑が現れました。特発性血小板減少性紫斑病が疑われるとのことで、血小板の数値を検査、21万(正常値内)ありました。その後数日間は誤差の範囲内で正常値。6月8日ごろ突然10万にまで下がり、ステロイド治療を開始することに。6月10日にはいったん正常値近く(16万)まで戻った血小板の数値、そして、おなかの紫斑も消えました。このままどんどん回復することを願っていましたが、別の検査では飼い主の期待とはまったく逆の数字が出てしまい、DIC(播種性血管内凝固症候群)と診断されました。
DICを宣告された場合、基礎疾患の治癒が約束されていない限り、手だてはありません。どんな治療をしても対症療法にしかならないのです。血小板も、16万まで戻った翌々日には再びじりじりと減り始めました。かかりつけの病院、大学病院、腫瘍専門医、いずれの病院でもさいごまでなにが基礎疾患なのかはわかりませんでした。亡くなる日の血液検査も、一般的な生化学検査の項目はすべて正常値、エコーでみた心臓にも問題は見あたりませんでした。血小板の数値だけが、なんの手だてもなく、日々じりじりと減少していきました。
パウはずっと、元気でたのしそうでした。
犬はぎりぎりまで痛みを訴えないこが多いのですが、パウはちょっとした便秘でも食事をとらず、痛いことをアピールするためにおしりをあげたり、とにかくちょっとでも不快を感じたときにはすぐに教えてくれる子でした。4月になんだかもやもやっとした不安を感じたのはパウがいつもと様子が違うからではなく、本当にカンの部分でしかありません。特別なカンではなく、母親であれば誰しももっている類のカンだと思います。
亡くなる前日、夕食まえの写真です。ごはんがたのしみで、わくわくしながら待っているパウです。最期の日の朝も、おいしそうに朝食を食べ、病院で診察を受け、公園を歩き、帰宅後はいつもどおりお気に入りのイスでごろっと横になって寝たり、水を飲んだり、わたしの食べている昼食を、ちらっちらっと興味深そうに覗いたり。
そんなふつうの日の午後、水を飲みに起きたパウが、突然腰が立たない感じでふらつきました。口の中は真っ白。今朝の検査で血小板の数値を知っていたので、かかりつけの病院に電話し、輸血の準備をお願いしてすぐに病院へ。受付待合室にいたとき、パウはぐったりというよりはきょとんとした様子でいたので、「かわいいおとなしい子ね」とふつうに話しかけてくる人もいました。亡くなる直前の顔つきには見えなかったのだと思います。
供血犬の血液検査を待っているあいだ、パウはわたしの腕のなかにいて、ずっとパウの目を見て、話しかけていました。諸検査が終了し、輸血ができる状態になったときにはかなり危ない状態、意識がある状態のパウの目に、最期にうつったのはわたしの顔だったと思います。
処置室に入ってすぐに心肺停止、蘇生処置が施されましたが、もどってくることはありませんでした。本当に、最期の最期まで、先生たちは一生懸命、手をつくしてくださいました。感謝のことばしかありません。
パウは最期まで苦痛に顔をゆがめるようなことはありませんでした。息があらくなることもなく、ただただ、すーっと、静かに息をひきとりました。12年3ヶ月という短い生涯でしたが、最期の日まで、生活の質を落とさず過ごせたこと、これだけは本当によかったと思っています。クオリティオブライフに理解のある先生たちに、心から感謝しています。
あのもやもやっとしたものをかかえた4月からパウが亡くなる日まで、パウはいつもと同じようにきげんよく食事も軽めの散歩もたのしんで過ごしていました。わたしは犬たちのまえでは平静をよそおいながら心のなかでは一喜一憂し、あきらめはしないけれど過度な 期待もしないように自制し、最初の余命宣告の日から先は歯を食いしばり、泣かずに過ごしてきました。
パウが病気であることを感じさせず、あまりにもしあわせでふつうの毎日を過ごしていてくれたから、ひょっとしたら先代のチワワたちと同じように、18歳、19歳まで生きてくれるんじゃないかとか思うことさえありました。
パウが逝ってしまったいま、覚悟はしていたけれど、苦しいです。あたまの先からつま先まで、全身の毛穴という毛穴がチクチクビリビリと痛み、呼吸ができないような感覚です。みぞおち、胃のあたりは例えようのない感覚でおしつぶされている感じです。食事はとれないのではなく、とることを忘れてしまいます。黒とチコの散歩、たのしいはずの時間も、拷問を受けているかのような痛みを心に感じます。そして、散歩から帰ってくるとついつい習慣で足ふきを3つ用意してしまいます。フィラリアの薬も、今年のぶんを買った日、全部3錠ずつにわけていたので余った1錠を見るとこらえようもなく涙が出ます。
わたしの朝はこの12年間、パウからはじまっていました。パウは顔をなめたり、髪をくしゃくしゃしたりして積極的に起こしに来るのではなく、寝ているわたしの顔の真横に座って、ただただじっとわたしの目が覚めるのを待っているのです(夫談)
それで、目をあけると、どアップのパウの顔がいつもそこにあって、ものすごくうれしそうな顔で、「やっと起きたー!」という表情で、ひっくりかえってわたしの顔の真横でおなかを出しておよぎはじめ、わたしもなんだかすごくうれしい気持ちで「あ〜〜〜、パウくんだーおはようー♪」といいながらパウをなでまわして目覚めるのが日常でした。パウが亡くなったあとは、黒が静かにその場所に座っています。
わたしもとても苦しいですが、黒も苦しいのだと思います。亡くなる日もくつろいでいたパウのイス(写真は亡くなる数日前)
いまは黒がときおり、いままで見たこともないようなしょんぼりとした表情で、横になっています。いつもいっしょだったものね。本当に我が家の3匹、仲良しなのです。
亡くなったあと、季節柄長くは安置できず火曜に火葬、日曜・月曜と家族でお通夜のようなことをしました。お気に入りの指人形を抱えて、安らかな顔です。ふつうに寝てるみたい。火葬の日まで、何度も何度も、なでたり、ちゅーしたり、パウの毛に顔をうずめたりしました。この12年間、何億回何兆回したかわからないけれど、もうできなくなっちゃうんだな。離れたくない。離れたくない。離れたくない。
古くからの犬友さん、お世話になった先生たちから、きれいなお花がたくさん届きました。本当にありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。火葬は自宅から5分くらいの場所まで来てもらい、パウも見慣れた、そして歩き慣れた場所で送りました。
亡くなることなんて考えて生活をしたくはありませんが、亡くなってからサービスを探したり選んだりする自信はありませんでした。だから、生前、検索するのもつらく心がおしつぶされそうに苦しかったけれど、利用するサービスを選んでおきました。
火葬のあと、お骨になったパウは頭の先からシッポまで、完璧な形で戻ってきました。コープスブライドに出てくるガイコツ犬みたいに。夫とともに骨をひろって、骨壺におさめました。そして、パウのお気に入りの場所、外がよく見える窓ぎわに、祭壇をつくりました。
パウの名前の由来はインディアンのお祭りであるPOW WOWから。迷子札をつけているネックレスはわたしの持っていたサント ドミンゴ(インディアンジュエリー)をくだいて、おそろいのネックレスにつくりかえたものです。
HAPPY TEEPEEのお客さまから、愛犬が亡くなったお便りをいただいたり、愛犬のお骨に迷子札をかけてくださっているお話しを伺ったりすることもありました。亡くなってからも商品を大切にしてくださって、ありがたいことだなって思っていましたが、実際に自分の犬のお骨にパウの迷子札、パウがしていたお手製のネックレスをかけてあげると、小さな骨壺が、まるでパウのように見えました。いつも身につけていたものですからね。
正直、あまりのつらさに、HAPPY TEEPEEはもうやめてしまおうかとも思いましたが、自分で愛犬を失い、迷子札を最後にこんなふうに使ってみて、お客さまたちからのお便りなんかも思い出すにつれ、やっぱり続けていかなくちゃなと思い直したりした数日間でした。でも、まだ、もうすこしお休みいただきます。
右のほうにある、小さな燭台はメキシコの生命の樹の燭台。お誕生日ケーキにさす小さな蝋燭を灯しました。色は、パウのハーネス&リードの色(グリーン)、黒のハーネス&リードの色(ピンク)、チコのハーネス&リードの色(イエロー)で。3匹そろってないと、寂しくて寂しくて胸がはりさけそう。
ありがとう、パウ。パウのおかげで12年間、本当に豊かで幸せな時間を過ごせました。
どんなにパウのかわいさを伝えたくて写真を撮っても、けっきょく実物よりかわいい写真も、実物とおなじくらいかわいい写真も、いちまいも撮れなかった。
ふだんのふつうの日のふつうの生活の写真がたくさんで、せつない。とにかくパウのにおいをかぎたくて、パウの体に触れたくて、パウが恋しくて恋しくて仕方ないです。
すべてのいきものは誕生した瞬間から、死ぬ瞬間に向かって生きていますよね。誰にでも寿命はある。もちろんわたしにも。残された時間は誰にもわからないけれど。
このブログを書きながら思ったんです。毎朝ねぼすけなわたしが起きるのを楽しみに待っていたパウ、きっとわたしの死の瞬間にも枕元にいてくれるはず。わたしの死に方は自然死なのか事故死なのか病死なのかわかりません。でも、どこでどんな死に方になろうとも、その日がきたら、枕元にパウがいて、人生を終えた瞬間にパウと再会が果たせて、わたしはきっと目覚めるように命を終えるんだって思えました。
だから、その日が来るまで、生まれながらに無償の愛を備えた犬たちに学び、犬たちのために生活をしたいと思ってます。
精神科医のE.キュブラー・ロス博士も著書でこんなこと書いてましたね。中学時代に同級生が病気で亡くなったとき、著書(「死ぬ瞬間」その他)を読みました。
いちばんむずかしいのは無条件の愛を身につけることだ。
死は怖くない。
死は人生でもっともすばらしい経験にもなりうる。
そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。
死はこの形態のいのちからの、痛みも悩みもない別の存在形態への移行にすぎない。
愛があれば、どんなことにも耐えられる。
どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛をあたえようと心がけてほしい。
それがわたしの願いだ。
永遠に生きるのは愛だけなのだから。