11月1日2日はメキシコの「死者の日」。日本でいうとお盆のような行事にあたります。死者が帰ってくる楽しい日。
死者の日を考えるうえで外せないのは民衆版画家ホセ・グアダルーペ・ポサダ(1852-1913)の骸骨画。
ポサダは写真が一般的でなかった当時の民衆向け新聞に凄惨な事件、政治問題、社会風刺などの挿絵を描いていたのですが、彼の名を不動のものにしたのは死者の日のチラシ。あらゆる登場人物(英雄・司祭・貴族・労働者・恋人たち・子ども・動物など)が骸骨の姿で描かれ、
今日は私で明日はおまえ
墓の中ではみな同じ骸骨の山
といった文句で死の身近さを強調し、民衆の人気を得ました。
ポサダの骸骨画において死は生。死の姿になっても変わることのない人間の特徴(独裁者の横暴さ、金持ちの傲慢さ、酒浸りになる人間の弱さ)を笑い飛ばし、死の平等さや生と死の転倒したおかしさを表現し、そしてそこには「生死は円環する」という土着の死生観があらわれています。
毎年死者の日が近づくと、民俗における死生観や死の隠喩について思いをはせるのですが、先月(2012-10-18)戸澤裕司氏による写真展に足を運び、カジマヤー(97歳を迎えた方の長寿のお祝い)〜葬儀、土葬〜7年後に掘り起こしての洗骨式 という、長年にわたっての取材からの非常に貴重な写真を目にすることができました。
生がすぐ直前まであった老婆の美しい死顔、そして7年後に掘り起こされた肉と皮の失われた頭蓋骨、この写真はわたしにはまったく同じ姿に見えました。
死は他者のものでありながらも常に自己に内在する。そして死はその時がくるまで、どうしても不可知なものです。ただ、わたしは戸澤さんの写真展をながめながらうっすらと、はっきりと感じたのです。確かに生は死であり、生死は円環する。
今日は私で明日はおまえ
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